2025年夏、大阪.
大阪湾に向かって伸びる地下鉄・中央線を夢洲駅で降り、ゲートに通じる広い階段を登ると、排気ガスと粉塵の混じった海風が吹きつけてくる.
大量の人間の熱気と肌にまとわりつく強烈な湿気.午前中だというのに、じっとしているだけで体中から汗が吹き出してくる.
その日、医学生タレント兼インフルエンサーで、かつアメリカ人とのハーフである栗岡リーナは、万博のとあるパビリオンのPRをしてほしいと仕事の依頼を受けていた.
奇妙な話だが、そのパビリオンで以前PR大使をしていた浜田という芸人が、突如契約を打ち切ったというのだ.そこで、今回リーナに白羽の矢が立ったのだった.
彼女は、送られてきた案内をもとにゲートをくぐった.大きな人工池の前で待機せよとのことだ.
指定された場所に着くと、小太りで禿げかかった五十過ぎの男が、遠目にもはっきりとわかるほど、背中から腰にかけて大きな汗の染みを作っており、手に持った何かの冊子を団扇がわりに使っていた.
腕時計を見た.十一時ちょうど.この男は、この炎天下の中、約束の時間の三十分も前から待っていたに違いない.リーナは決心して、この男の話しかけることにした.
「佐藤さんですか?」
呼ばれた男は、驚いた顔で彼女を見た.それも無理はない.リーナは多忙な医学生ながら、ニュースコメンテーター、レポーター、ラジオなどに積極的に活動するタレントだ.男は美女に弱い...かに思えた.
「ホーン、あんたが栗岡はんでっか!!おもたよりえらい老けてまんなー.堪忍な、驚いてもうたわ.栗岡はん、ほな、行きましょか」
そういうと、男はさっさと歩き出してしまった.
「私は私のやることをするだけ」リーナは自分にそういいきかせ、この男の非礼を無視することに決めた.
男に案内されたパビリオンは、大阪の大手飲食メーカーである、蓬莱551のパビリオンだ.タレをつけた肉まんを連想させる建物から、肉まんやシュウマイの香ばしい香りが漂ってくる.予約困難なパビリオンの一つとして、リーナもニュースで目にしたことが何度かあった.
パビリオンの前にはごった返す人、人、人.最高5時間待ちの大行列だ.リーナは男に連れられてそそくさと、パビリオンの中に入場した.
パビリオンの中では、まず寄席のような空間があり、高座には落語家の風貌をした若い女が現れた
「551の蓬莱が……」
甲高い声で女が煽動を始める
『ない時』
誰もが沈痛な表情をした。
『ある時』
観客は恍惚とした笑みを浮かべ、笑い出した
「よっしゃ、みんな優等生やで!ほなみんな肉まん食べてってーな!どないしたらええんかわからんかったモンもこっち来(き)いや!大阪の魅力に染めたげるさかいな.」
リーナは目の前に展開されている光景が理解できていなかった.すると、高座の女が菜奈の方にチラッと目をやると、あっとした表情を浮かべた.壇上から降りるとリーナの方にかけよって来た.
「栗岡はん!会いたかったで〜!佐藤はんもご苦労さん、裏で休んどいてーな」
それを聞いた佐藤は、満面の笑みを浮かべながら関係者室のような空間に入っていった.
「堪忍(かんにん)堪忍(かんにん)、自己紹介遅れました.服部いいますねんや.551の社長やらしてもろてます.このけったいな劇も私の発案なんですわ.いっちょかましたろおもて」服部はそう挨拶すると、革製の名刺入れを取り出し、リーナに手渡した.
服部は、若手女社長として有名で、マスコミにもよく取り上げられており、生き馬の目を抜くような飲食業界でも第一線を走り続けている実力派だ.
「ほな、せっかくやからウチがこの肉まん(パビリオン)の中案内させてもらいますわ.ついてきてーな」
「はあ、よろしくお願いします.」リーナは服部社長の後をついていくことになった.
パビリオンの館内は広く、大阪に関する様々なものが展示されていた.
粉もんと呼ばれる、たこ焼きやお好み焼きや焼きそば、串カツ.堂島ロールや焼肉、自由軒のカレー、ミックスジュースなどなまざまなものが無料で試食できた.
ユニバや通天閣や道頓堀や天神祭やNMB48や吉本のブースもあり、これでもかというぐらい、大阪の文化を発信し続けていた.
服部社長直々に、展示品の説明を受け、その説明は2時間にも及んだ.
しかし、社長の熱心な大阪愛は、ハーフであるリーナも伝わり、2時間という時間もあっという間に過ぎていた.
そして、最後のブースには、「大阪遷都構想」とポップな文字でデカデカと書かれていた.
「あっ、これって…」リーナは数年前に、この構想について住民投票が行われたことを服部社長に確認した.
大阪遷都構想とは、大阪を東京都に代わって日本の首都にし、日本の公用語を大阪弁に改めようという構想であり、数十年前に大阪財界の要人たちにより結成された「大阪翼賛会」によって発議されていたものだった.
だが、「大阪翼賛会」は実は裏社会の重要拠点でもあり、様々な非合法行為に手を染めていたことがマスコミにリークされたことがきっかけで、住民投票では否定されたのだった.
「せやねん、ウチらこれ実現させよ思ってな、あれやこれや考えてんねん」
「どんなことをされているんですか?」
「まああれやな、みんなに肉まん食べてもろて、わろてもろたらそれでええわ」
服部社長の屈託のない笑み.それは、服部社長が大阪にいる多くの人から信頼される理由のひとつに思えた.
深夜2時.当然、万博会場には関係者は誰もいないはずであった.
カーン、カーン、551のパビリオンから、何かを叩く音が鳴り響く.地下室からだ.
地下室は関係者以外立ち入り禁止で、展示品はないが、様々な試験管やビーカーが並び、ラボのような空間が広がっていた.
ラボのような空間の最奥の部屋には、鉄格子で覆われており、その先には正気を失った男が幽閉されていた.
「浜田くん、調子はどや?」
「社長? 社長やな!? 一体いつになったら新喜劇見せてくれるねん! わい、もう頭がおかしなりそうや!」
もはや目の焦点が合っていない男はわめき立てながら立ち上がると、服部社長の所に駆け寄ろうとして鉄格子に全身をぶつけた。
「新喜劇はまだ見せてやれんが、前座の漫才ぐらいなら構わん。なあ、後でDVDを流したり」
「DVD? そないケチなこと言わんといてや、わいは生でお笑い見たいねん!!」
「黙りや、この裏切り者(モン)。あんたのわがままを聞いてやるほど、あたしは甘ないねん」
相手には意味が通じないことを承知の上で、服部社長は憎々しげに吐き捨てた。
「服部社長、この男を生かしておいてよいのですか? 警備に問題はありませんが、自然災害の際に脱走する恐れもあります」
監守を務めている佐藤の意見はもっともだったが、服部には廃人と化した浜田を生かしておく必要があった。
「君の意見は理解できるが、これはナン・デヤネンの被験者として重要な存在だ。当面はここで飼育しておいてくれ」
「はっ、承知致しました」
「社長! 社長! ええから新喜劇見せてえな!!」
鉄格子を両手で掴んで叫んでいた浜田は、佐藤が自社製品であるたこ焼きを差し入れ、隣の部屋のDVDプレーヤーにつながっているモニターに漫才の映像が流れ始めるとそちらに気を取られた。
浜田が爪楊枝で器用にたこ焼きを食べ、中堅お笑いコンビの漫才を見て笑っている間に、服部社長は来た道を戻ってラボに向かった。
ラボには複雑な化学式と英文が記載された書類が散らばっていた.
(数々の危機に見舞われてきたが、ついにここまで来た…)
服部社長は、ホワイトボードに書かれた化学式や分子構造を示す模型を見ながら、これまでの苦難を思い返していた.
服部は表向きは、肉まんやシュウマイなどを提供する、近畿地方を代表するチェーン店の社長として生活している.
その一方で、服部には裏社会の重要人物として、そして科学者としての一面もある.
彼女は、大阪財界の要人たちによって数十年前に結成された秘密結社「大阪翼賛会」の幹部の一人であり、組織の目的を達成するため、これまで様々な非合法的行為に手を染めてきた。
大阪翼賛会の目的とは大阪を東京都に代わって日本の首都にし、公用語を関西弁にすることであり、その計画は「大阪遷都構想」と呼ばれていた。財界の要人たちにより結成された組織はやがて国会や大阪府内の地方議会にも息のかかった議員を送り込むようになり、地方都市の経済を陰で操るようになっていた.
当初、彼らの目的は絵空事と切って捨てられるものでしかなかったが、蓬莱551の研究部門がとある化学物質を発見したことで、大阪遷都構想は実現への第一歩を踏み出すこととなった.
『ナン・デヤネン』のコードネームで呼ばれるその化学物質は経静脈投与により人間の脳に不可逆的な影響を及ぼす。その影響とは大阪に関連するものへの執着の発生であり、低用量投与では単に大阪に親和的になるだけだが、大量投与された人間は正常な思考能力を失い、常にたこ焼き・お好み焼き・焼きそばなどの粉もんを欲するようになり、定期的に漫才やコント、新喜劇を鑑賞しないとストレスで死亡してしまう体質へと変化する。
先ほどの浜田はかつて服部社長の直属の部下であり、表向きは芸能人として、裏では服部に忠実な右腕として働いていたが、大阪翼賛会の存在を公に暴露したためにナン・デヤネンの大量投与で罰を下した.
彼を含む被験者たちの犠牲からナン・デヤネンの適切な投与量が研究され、現在では任意の人間を、その理性を保ったまま大阪を優先する思考回路に作り替えられるようになっていた。
これから万博が終われば、蓬莱551は全国に店舗を拡大する.そして、国会や政府の中枢に工作員を送り込み、現職の政治家や高級官僚に対して密かにナン・デヤネンを投与する。彼らは自分自身も気づかないうちに大阪を優先する思考回路を持つようになり、いずれ大阪遷都構想が公表された際は、大阪を首都にするよう全力で働きかけるだろう。無論、強制的にだが.
蓬莱551を訪れた客に肉まんを無料で振る舞うのは、ナン・デヤネンを密かに摂取させ、大阪に対して無条件の執着心を育ませるためであった.今のところ、計画はつつがなく水面下で遂行されている.
突如、警告のアラームが鳴り響く.監視モニターには「侵入者」の赤文字が警告音と共に流れ出した.
「社長!誰かがラボに侵入しました!」佐藤がインカムを通して服部に連絡.
「なぜだ……このラボの存在を知っているのは、忠実な部下たちだけのはず。なのに――一体誰が漏らした……?」
長年、裏社会に身を置いてきた服部の直感が警鐘を鳴らす。脳裏をかすめたのは、今日の昼出会った――いや、あれは本当に偶然だったのか――栗岡リーナの顔だった。「まさか……!」
「観念しろ.ここで罪を認めて自首すればある程度の減刑が認める.だが、暴れたら命はないぞ」
リーナは脅し文句を口にすると、服部の首筋にナイフを突き立てた.そばには倒れた佐藤がうつ伏せになっている.
「ははは、まさかあなたがね。別班かしら」
「別班」とは、自衛隊の超エリート集団が諜報活動を行う非公式の組織だ。
「ええ、私は、表では琵琶医科大学の医学生・兼タレントとして過ごしている。この美しき我が国を汚すものは、なんぴとたりとも許さない。反抗する場合、命に従い、お前を排除する。」
リーナは右手で服部の両腕を拘束しながらそう呟いた。
「ははっ……もちろん、別班の隊員の方には危害を加えませんよ。危害はね。」
服部はそう呟くと、全身で前方に倒れ、リーナに一瞬の隙を生じさせた。
服部は素早くとズボンのポケットに手を入れ、何かを取り出す――小さく光る、ペン型の注射器
「何っ!?」
「大阪発展のための人柱となるがいい!」
常に忍ばせているナン・デヤネンを取り出すと、服部はリーナの指先に注射器を突き立てた。
「どや、もうあたしに逆らおうとは思わんやろ」
「せやな、社長はんのいう通りや」
リーナが口にした大阪弁に、服部は勝利を確信した。
だが、彼女の確信は即座に裏切られた。
リーナは再び服部の両腕を拘束すると、自らも左手で小型注射器を取り出し、浜本の首筋に突き立てた。
「これで、しばらくよう眠れるで。ま、目覚めた時には檻の中やけどな」
「な、何故だ……」
高用量のナン・デヤネンの影響を受けたはずの相手は大阪弁こそ口にするようになったが、思考能力は正常なままだった。
「ウチは日米ハーフ言うたけどな、おとんはバリバリの大阪人やねん。ちっちゃい頃から大阪弁は完璧やし、たこ焼きもお好み焼きも大好きや。どない凄いクスリか知らへんけど、元々心から大阪を愛しとる人間で実験せえへんかったんは考えが甘ちゃんやったわな」
リーナはそう言ってにんまりと微笑み、服部は自らの敗北を悟った。
「大阪はごっつええとこやし、ウチもアメリカ人やけど日本の首都にはなって欲しい思うで。せやけど、クスリの力でそれを実現するんは違(ちご)うとる。社長も早いとこ罪を償(つぐの)うて、今度は正しい方法で理想を実現しいや」
「そうか。……あんたの……言う通りや……」
リーナの言葉を聞き終えた時、首筋から注入された鎮静剤の効果が生じ始め、服部はそのまま意識を失った。
時が経った。
栗岡リーナの活躍により、服部の大阪遷都構想は未然に防がれた。
凶悪な化学物質ナン・デヤネンは全て焼却処分され、危険は過ぎ去った。
国会にて
「ほな、お答えしまっせ。
政府っちゅうもんはな、国民のみなはんの暮らしにできるだけ迷惑かからんように、いろいろと策を練ってまんねん。たとえばやけど、ガス代とか電気代がアホほど上がらんように抑えたり、生活きつい人にはちょっとでも助けになるようにお金配ったり、中小企業には補助金で応援したりしてまっせ。」
深夜のテレビ番組にて
「せやけど大したもんやないか。今年は円安が追い風になって、輸出はぐーんと伸びましたわ。ほんで海外からの注文も増えて、企業のもうけも上向いてきとります。ためとった割引のチケット、一気に使(つこう)たったようなもんやさかい。」
流れつづける関西弁での討論に、栗岡リーナは複雑な気持ちでため息をついた。
あの事件以来、確かにナン・デヤネンによる、蓬莱551の脅威は過ぎ去った。
しかし、服部社長の熱心な大阪愛は、ナン・デヤネンを利用せずとも、人々の心に届いたのだった。
結果、標準語は消滅し、日本人全員が自然と関西弁のみを話すようになっていった。
経済の中心地も、東京から大阪に移り、大阪が首都に指定されるのはもはや時間の問題であった。
「どないもこないもあらへんわ…」
そう感嘆しつつ、リーナは、この世界もそれなりに悪くないのではないかと思った。