この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
名古屋市内の尾頭橋病院では,珍しく消毒薬の匂いがしなかった。
近年名古屋では急激に薬物乱用による救急搬送が増えている。
ここ尾頭橋病院では,その薬物患者の主な受け入れ先になっているのだ。
入院病棟の廊下を歩きながら,研修医のカオリは隣にいる同僚に目を向ける。
カオリの同僚のレンだ。
レンは25歳で,角張った顔立ちと身綺麗な半分パーマがかった亜麻色の短髪が,神経質そうな印象を与える。
レンが言う。「──で,昨日救急に運ばれて来た大学生四人の様子は?」
「まだ目はランランとしていて,観念奔逸ってところかな」カオリは答えた。
カオリは,カルテを書くためにこの大学生四人に話を聞きに行かなければならず,半ばうんざりとしていた。
「じゃあ今から回診行ってくるわ」
case1 西くん
「西くん昨日のことは覚えてる?」
西くんは明らかに目の焦点があっておらず,寄り目のような形でカオリをベッドから見上げていた。
少し時間が経ってから,「あああ,,」と唸るだけだ。
たぶん西くんの頭の中では,言葉が飛び交いすぎて何を話していいのかわからないのだろう。
西くんの言語処理能力が追いつかないのだ。
「今は何が見えるの?」
「テレビが見える,,,木が見える,,,プーさんが丸太の上に乗っかっている,,,ものすごい勢いで割り算してる,,,赤と黄色に光ってる,,,」
だめだこりゃ。カルテには”妄想・幻視が見られ,感情鈍麻が見られる”と書かなくては。
case2北くん
「北くんは昨日何してたか覚えてる?」
「もう大丈夫です。覚えてます。醒めました。」
北くんはもう大丈夫そうだ。薬物には個人差があり,だいたい接種後12時間ほどで消えるのだそうだ。
「昨日はクッキーを食べてから1時間ぐらいで,友達に黄疸が出てるって言われて焦りました。でもその時に薬物の効果が出てたんですね。」
北くんは昨日のことを詳細に語り出してくれた。
「まず吐き気がしたんです。でも吐けませんでした。それとなぜか感動したんです。」
感情の起伏は,薬物の禁断症状でよくある話だ。
「とにかく,目の前にあるものに感動したんです。ご飯,仲間,,,」
北くんは冷静に語るのだが,他人には理解できない内容だ。
「それと,歩いていても,ずっと景色が変わりませんでした。歩いても歩いてもおんなじ光景しか見えないのです。」
「このまま道路に飛び出してしまったら,,,ということまで考えました。すると,恐ろしくてたくさん水を飲みました。そしたらなんとか戻ってこれました。」
カルテには”昨夜は感情失禁・不安が見られ,恐怖もあった模様”と記載した。
「最後に,ここまでは歩いて来たような気がします。」
カオリはカルテに”健忘も見られる”と付け足した。
case3東くん
「東くんは,今何が見える?」
「…」
自閉の症状だろうか。東くんの目は充血していてまだラリっていいるようだった。
「曼荼羅のようなものが見える…」
「他には?」
「…」
思考途絶の症状だ。思考ができなくなる症状のことだ。
「昨日のことは覚えてる?」
「…」
東くんは,公衆の面前で下半身を出し,それで警察が来たのだから,この大学生たちがここの病院に来た原因を作った張本人のはずだ。どうやら思い出せないらしい。
「今どんな気持ち?」
「何かムラムラした感情が,,,あ゙あ゙あ゙,,,セックス,,,」
カルテには”自閉・思考途絶が見られる。また性欲亢進・情動性制御障害の疑い”と記載した。
case4南くん
「南くんは今何が見える?」
「カオリさんの顔です。僕ももう大丈夫です。昨日はごめんなさいね。」
南くんは大丈夫そうだ。やはりドラッグの効果には個人差があるようだ。
「昨日のことは覚えてる?」
「ずっと音楽が鳴っていて,,,みんなの顔が見えなくて,,,それと懐かしい風景も見えました。」
「今まで忘れていたような幼少期の光景が見えました。そうです,走馬灯ってこんな感じなんだなって感覚です。」
「小さい頃はこういう夢とか風景を見たことがあるな,,,って思いました。トイレからの夕焼け,ゲーム機,自分が小さくなりすぎて,階段を登れない光景まで見ました。」
「そして,黒い棒線が出てきては赤くなったりということを繰り返していました。その棒線で網目を形成しているのが見えました。」
薬物は側頭葉に作用することが多いため,記憶に関する内容や言葉に関する内容が,使用者には感じられるのだという。
大きく見えたり小さく見えたりといった症状は,「アリス症候群」といって,幼少期に感じられる症状の一つだ。

カルテには”離人感(デタッチメント)が見られる”と記載。
近ごろのニュースでは,アメリカの薬物中毒を生み出している麻薬カルテルが,ここ名古屋に潜伏しているというニュースが入った。
日本では薬物の使用は規制されているものの,一部は気軽に手に入るようになっており,かの麻薬カルテルもその気になれば日本中に薬物を流通させることだって容易だろう。
もっとも,そんなことになれば医療者の仕事が増えるだけだから,勘弁してほしいねと,研修医室でカオリはレンに愚痴を漏らしていたのだった。